今回の記事は、「永瀬王座がスーツでタイトル戦を戦っている件について」です。
こちらの記事で書きましたが、私は「スーツ批判派」です。その記事に対して、「賛成派」の方からいろいろ意見をいただきましたので、それに対する私の意見を書き連ねておこうと思います。
「永瀬王座スーツ賛成派」による意見は、おおむね以下の3つに思えます。
- タイトル戦でのスーツは前例があるので問題ないと思う
- 和服は身体がキツいのでパフォーマンスが落ちる。そうなるくらいならスーツでよい
- 和服はTPOや関係者への配慮」と言うけれど、そんなこと気にせず対局に全力投球してほしい
注意してほしいのは、永瀬王座自身が「前例があるから問題ない」とか「和服だとパフォーマンスが落ちる」といった発言をしているわけではない、ということです。本記事は、あくまで「賛成派」の方々が発する意見への反論であって、永瀬王座本人への批判ではない点はご理解ください。そこのところを間違えないようにお願いします。
「前例さえあればOK」は一種の思考停止では?
「賛成派」からは、「以前にも誰々がスーツでタイトル戦に出たことがある」と、いろいろ前例が示されます。しかし、そうした人たちに言いたい。
「前例がある」と「是非の判断」は別では?
私がまだ20代の頃の、恥ずかしい話を一つ。上司から、ある仕事を頼まれました。計画を考え、資料を作って上司に説明しにいくと、いろいろ質問を受けました。
上司「この○○の部分は、このやり方でOKって判断なんだね?」
私「はい(^^) 前回の資料を調べたんですけど、そのときも、このやり方でやっていたので」
上司「いや、前回がどうだったとかじゃなくて、お前自身がこれで良いと思うか、悪いと思うかを聞いてるんだけど」
めんどくさぁぁぁーー。
ていうか、良いと思ったから、こうして説明に来てんだけど。悪いと思ったんなら、他の案を考えてるんだから、そもそも説明に来てねえっつーの。
……とは思ったのですが、「良いと考える根拠」が、自分の中で確立されていないことに気が付きました。ヤバい、めっちゃ汗出てきた(^^;)
私「……前にもやったことがあるので、これで問題ないと思います」
上司「前にもやったことがあるからOKってこと?」
私「えーと……はい^^;」
上司「じゃあお前は、悪い慣習とかでも、前例があるからOKって考えるの?」
私「いや、そういうわけでは……^^;」
上司「前例の有る無しは参考にするのはいいけど、それで良し悪しまで判断するのはどうかな。自分の頭で良いか悪いか考えなさい」
その場では「はい」と引き下がったのですが、私、ふくれっ面になりました(笑) いちいち自分なりに良し悪しの根拠を積み重ねていたら、時間が足りなくなるじゃん。前例に従って処理した方が、効率いいじゃん。
……と反発を覚えたのですが、少し時間が経ってから振り返ると、「前例に従うだけでは現在以上の進歩や成長は望めない」と気付きました。いや、結果として前例通りになったとしても、それはそれでいいんですよ。良し悪しを自分の頭で考えたのであれば。
「前にもやったことがあるからOK」は、一種の思考停止だと気付かされた出来事です。
永瀬王座の「前例を疑う姿勢」自体は立派だと思う
もっとも、この点に関して言えば、永瀬王座は逆に立派です。「タイトル戦には和服」との前例で思考停止することなく、自分で「スーツの方がベターかも」と考えているのですから。
しかし、「スーツ賛成派」には、「前例があるからOK」と思考停止みたいな主張をする人もいます。前例うんぬんではなくて、「スーツは和服よりも○○の点で良いところがあるから」という意見を出してほしいのですが。
スーツの方がむしろパフォーマンスが落ちるのでは?
「スーツは○○の点で良いところがある」とすれば、和服よりも身体が楽な点でしょう。いや、私はちゃんと和服を着た経験がほぼない(結婚式くらい)のですが、スーツより大変なのは間違いありません。また、和服は身体面だけではなく、管理面やコスト面でも大変なはずです。
よって、和服よりもスーツの方が楽 → スーツの方がパフォーマンスを発揮できる、という論法になるわけです。
しかし、私の意見は逆です。こちらの記事で書いたのですが、「スーツで対局する方が、むしろパフォーマンスが落ちるんじゃないの?」と思っています。
(詳しい理由は↑の記事を参照)
厳しい条件下でもパフォーマンスを発揮できるのがプロ
和服うんぬんからは、ちょっと話が逸れますが……。
「和服だと身体が大変なのでパフォーマンスが落ちる」という主張は、つまるところ「いつもと違う環境になるとパフォーマンスが落ちる」という意味かと思います。
が、それを言い出したら、タイトル戦はシンドイことだらけです。
まず、地方で対局することが多いですから、長距離の移動で疲れます。また、前夜祭などのイベントに顔を出すのも大変でしょう。本音の部分では、対局者は前夜祭など参加せず、翌日の作戦の最終確認などに時間を費やしたいはずです。
移動や前夜祭などで対局者の体力や時間を奪っていますから、「タイトル戦はそもそも制約条件が多い」のですね。しかし、そういう条件でも、対局者はファンに良い将棋を見せる責務がある。
ここで、ラーメンハゲこと芹沢達也氏の名言を置いておきます。
どんな条件でも最善を尽くして結果を出すこと。「プロとは何か?」という問いに対する答えの一つです。
藤井聡太七段が初めてタイトル戦に登場した2020年6月の棋聖戦。みなさんご存知の通り、3-1で渡辺棋聖からタイトルを奪いました。いつもと違う「初めて尽くし」で厳しい条件だったはずですが、それでもパフォーマンスを落とさずに勝ち切った藤井七段は立派ですね。
また、2020年2月に行われた棋王戦。
プロになってまだ1年そこそこの本田奎五段が、一次予選から勝ちまくって渡辺棋王への挑戦権獲得。五番勝負では敗れてタイトル奪取ならずでしたが、1勝は挙げました。パフォーマンスが落ちた状態で渡辺棋王に勝てるわけがないですから、ちゃんと力は出せていた証拠です。
初めてのタイトル戦で要領がわかっていない若手棋士でも、ちゃんとパフォーマンスを発揮してプロの仕事ができています。
こういう事例を見ると、「和服だと身体が大変なのでパフォーマンスが落ちる」なんてのは、ただの泣き言に聞こえます。ぶっちゃけ、和服かスーツか程度でパフォーマンスが落ちるとしたら、それってプロとしてどうなん? という気がしますね。
「TPOや気遣いは不要。良い将棋を指すことだけ考えてほしい」は最悪
さて、最後の話。
これは当ブログにいただいた意見ではなく、どこか他のところ(ヤフコメ?)で読んだものです。
「タイトル戦なんだからTPOとか必要でしょ。永瀬王座は関係者への配慮が足りないんじゃないの?」との批判に対し、「TPOとか関係者への配慮とかいらんから、自分の力を100%出し切って、良い将棋を指すことだけ考えてほしい」。
関係者への配慮は不要?
自分の力を出し切ることだけ考えればいい?
一見、永瀬王座を援護しているようなこの意見、私は最悪だと思います。
まず大前提として、プロ棋士は趣味ではなく「仕事」として将棋を指している社会人です。
(趣味で将棋を指すのは、プロではなくアマチュア)
読者のみなさんがどのような仕事をしているかは知りませんが、みなさんは自身の仕事を遂行するにあたって、お客様や同僚、取引先といった関係者への気遣い・配慮をしなかったりするでしょうか? そんなことはないですよね。
ならばそれと同様に、プロ棋士も仕事として将棋を指す以上、──もちろん対局に全力を尽くすのは当然ですが──対局相手やファン、スポンサー、タイトル戦の設営者、開催地などへの気遣いも必要ではないでしょうか。
「自分は目の前の仕事だけに集中・没頭できればいい。周りへの気遣いなど不要」
こういう人間が、みなさんの周りにいたとします。みなさんは、その人を尊敬するでしょうか? 一緒に働きたいと思いますか? 言うまでもないですね。
将棋ファンならば、良い対局を見たいと思うのは当然です。しかし、だからといって、「対局に全力投球できるよう、周囲への配慮は不要」なんて言うのは間違っています。なぜならそれは、
「対局に全力投球して、ファンである俺たちに良い将棋を見せてくれ。そのためには、永瀬王座が周囲に配慮できない(=周りから尊敬されない)人間になってもかまわない」
こう言っているに等しいからです。
みなさんは部下や後輩に、「仕事のパフォーマンスが落ちるから周囲への気遣いは不要」と指導するでしょうか? しないはずです。だったら永瀬王座にも、そういうことを言っちゃマズいでしょう。
これが先ほど最悪と書いた所以です。
「将棋に全力投球できるよう、周囲への気遣いなど不要」という意見は、永瀬王座を擁護するようで、まったく本人のためになっていません。本当の将棋ファンならば、応援する棋士の勝利だけではなく、立派な人間になること(人間的成長)も願うものではないでしょうか。
「仕事に全力投球」と「周囲への配慮」は相反する要素ではない
というか、そもそも論ですが、「仕事(対局)に全力投球」と「周囲への気遣いを欠かさない」は相反する要素ではないと思います。みなさんの周りにも、「仕事で素晴らしい成果を出しながら、周囲への配慮もできる人間」がいるでしょう。
そういう人は世の中にいくらでもいるはずですから、「周りに気遣いする余裕がない」は、単なる言い訳にしか聞こえません。